米国において発生した同時多発自爆テロ事件からおよそ一月。
本日、米英による本格的な報復(名目)軍事攻撃が始まりました。
この間の動きを見ると、危機時にこそ政治家の本質、根本的な価値観、
目指す理想社会像が明らかになるとの教訓があらためて実感されます。
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このニュースに接した際、私が最初に抱いた想いは、失われた全ての
命を痛ましく思う気持ちと、自分自身も当事者であるという責任意識
でした。
当事者というのは、自分がその場にいる可能性があったとか、身内や
親しい知人、同胞がその場にいたからという意味合いではありません。
他に争い、不幸があった状態で、自分だけが遊離した形で幸せでいる
ことは出来ません。今回の自爆テロの様な形は究極的な事例といえる
と思いますが、大なり小なり、他者の争い、不幸の影響が自分自身に
およぶ可能性は常にあります。
日本は幸いにして平和で豊かな暮らしが続いているために、こうした
他者の争い、不幸と、その影響が自分自身にも降りかかってくる可能
性に無頓着になっていた面があるのではないでしょうか。
私は、こうした「幸せの分割は出来ない」という真理を、目の当たり
の現実として究極的な形で再認識したという意味で当事者感覚を覚え、
他者の幸福を高めることにより、自らの幸福の質を高めるという方向
での根本的な平和を築く責任を自覚したところです。
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真の政治家の目指すべき道、役割は、テロの根本解決であり、テロの
ない世界の模索、構築ではないでしょうか。
テロ非難の声明がパフォーマンスに終わるのでは意味がありません。
犯人グループ、首謀者を特定し、大規模な軍事報復を行ったとしても、
テロの芽を絶たない限り根本的な解決にはならず、依然として次なる
テロの恐怖は消え去りません。
テロを断固として非難し認めないのは、ものごとを暴力によって解決
しようとする姿勢に対する批判であり、多様な価値観、各々の主張を
尊重しつつ話し合いにより解決を図ろうとする民主的価値観に最大の
重きを置くが故のことです。
重要なのは、テロのみならず、それと同様に個別の戦争も暴力、武力
によるものごとの解決手法そのものであり、我々が尊重する民主的価
値観を蔑ろにするものであるという点です。
テロやゲリラはいけないが戦争は良い、あるいは生物化学兵器はいけ
ないが核兵器や最先端兵器は良い、この様な論法は既成秩序側、強者
の論理で説得力がなく、非現実的です。
同じ暴力による解決という土俵に立つ以上、テロも空爆もその一手法
という意味で同列であり、テロは兵力の劣る側の常套手段として長年
に渡って用いられてきたという現実を、真の政治家であるのならば、
直視しなければなりません。
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テロは犯罪か戦争か、という議論がありますが、これは、受けとめる
側の対応、共通認識の度合いによって異なってきます。
これを共通の価値観で受けとめることが出来れば、犯罪として厳重に
対処し、裁判によって刑罰に処することが可能になります。
一方、価値観の共有が出来ずに、それぞれの正義がぶつかり合う様な
場合、状態で、強引に解決を図ろうとすれば戦争へと発展することが
あります。
テロに対して個別の戦争によって応ずることは、みすみすテロリスト
の側に暴力の共通土俵を提供し、暴力対暴力の構図の中でテロを正当
化させてしまうことに繋がります。
テロを根絶していくためには、各国の共通認識、合意を高めることに
より、テロを犯罪として裁いていかなければなりません。
今回でも、各国に犯罪の証拠を示し、国際協調の下で犯人を手配し、
裁判により裁く方向を模索すると共に、世界の本質的な課題に真っ向
から取り組む意志を互いに確認するならば、現在の様な対立構図には
ならず、逆に包囲網を広げることにより真の意味でテロを追いつめ、
根本的な解決に近づけることが出来るものと考えます。
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今回のテロを「民主主義に対する挑戦」と位置づける論も見受けられ
ますが、民主主義の価値そのものへの挑戦、あるいはその否定という
よりは、もう少し正確に「“現在の民主主義体制”に対する挑戦」と
認識するべきではないでしょうか。
すなわち、遵守されるべき国連決議と遵守されなくても良い国連決議
があるというダブルスタンダードな民主主義体制。
特定の国(常任理事国5カ国)が個別の利害により全体の決定を左右
する(拒否権を有する)ことが可能な民主主義体制。
また、世界の冨の極端な偏り。衣食住の根本的な生活基盤さえ危うい
人びとが大多数存在するにもかかわらず、一方では多くの食料を無駄
にする飽食があふれ、こうした他者の痛みに無頓着な世界の現状。
当然、こうした民主主義体制、世界の現状については、G7の1カ国
として世界に大きな影響力を持つ日本の責任も免れません。
また、私自身もその一員である責任を認識するところです。
こうした問題は、湾岸戦争の際にも浮き彫りになった世界的な課題で
あり、本来ならばやはり、イラクへの軍事制裁にひとまずの区切りを
つけた後に、同じ真剣さで根本的な解決に向けて手を着けるべき課題
であったと思います。
おかしいこととは思いつつ、問題解決を先送りしてきたツケが巡って
きた結果が今回のテロであり、これを自分自身の問題と受け止めて、
国連改革を通じた世界の民主主義体制のステージアップを図り、世界
共同体を構築することこそが重要であり、目指すべき道であると考え
ます。
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小沢一郎政治塾の夏期集中講義(夏合宿)において、政治家の役割に
ついて重要な方向性の提示がありました。
これは、「国民が、目先のことではなく、なるべく将来のことに目を
向ける様な方向で、社会をナビゲートしていくことが政治家の役割」
という趣旨のもので、深く共感を覚えると共に強く印象に残りました。
国民の関心を将来的な方向へナビゲートするためには、政治家自身が
確固たる哲学、理念をもって将来像、ビジョンをプレゼンテーション
しなければなりません。
これへの共感を得てこそ、初めて国民の関心、視線は将来的、本質的
な方向へと向かいます。
今回の件に関しても、国の根幹、安全保障にかかわる究極的なテーマ
であればこそ、避けることなく正面から堂々と哲学、将来像を語り、
国民をナビゲートするのが真の政治家のあるべき姿と考えます。
こうした中で、日本らしさ、日本の強み、日本の目指すべき将来像が
議論されることにより、国の行く末、方向性が明らかになると同時に
広く共有されて行くものと考えます。
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今回の様な危機時において、政治家の口から「憲法の制約」「憲法の
枠(内)」といった言葉を耳にすることがあります。
「制約」や「枠」という言葉の裏には、“やりたくてもやれない”と
いうニュアンスを感じるところですが、そもそも政治家として、国家
としての理念、在るべき姿と憲法との関係をどの様に捉えているのか、
疑問を抱かざるを得ません。
本来、国家理念、在るべき理想の姿があり、それを明文化したものが
憲法であるはずで、時代環境の変化により理念、在るべき方向と憲法
との間にギャップが生ずるのであれば、憲法を修正し「制約」や「枠」
を除去し、理念に基づいた行動を具現化出来る様にするのが責任ある
政治家の立場ではないでしょうか。
もし、“やれない”のではなく“やらない”という確固たる立場で、
憲法修正の必要がないとするならば、「憲法の制約」や「憲法の枠内」
という言葉ではなしに、「憲法に示す所の我々の国家理念に基づき」
という言葉で施策の是非を語るべきであると考えます。
憲法を、所与のものとして国家理念よりも高位に置き、あたかも侵す
べからざるものであるが如く、「制約」や「枠」といった言葉で語る
政治家は、形式としての憲法擁護派ではあっても、本質的な憲法理念
(=憲法に示された国家理念、目標像)を自ら納得して具現化させ様
とする憲法理念尊重派ではないと見ることができると思います。
例えば、小沢一郎党首は改憲派でありますが、憲法理念は厳に尊重し、
理念を実効足らしめるために現実に即した形にあらためようとする、
いわば憲法理念尊重形式改正派といえるかと思います。
これに対して小泉純一郎首相は、形式としての憲法(条文、解釈)は
守りつつ、理念は時代にそぐわないと考え実態の変革を目指す、いわ
ば憲法形式擁護理念改正派といえると思います。
従来、憲法改正派といえば、憲法理念改正派(9条の理念改正)との
構図で語られることが多く、実際小沢党首も憲法理念改正派と見られ、
いわゆる右派、保守層の支持を得ていた面があると思います。
しかし、小沢党首の今回の行動を通じて、憲法理念を尊重した上での
保守、日本らしさ、日本の強みの追究という方向性が明らかになった
様に思います。
これにより、小沢党首は一部保守層の支持を失うことになったと思い
ますが、逆に別の意味での保守愛国者層、すなわち温故知新で日本の
本来的な強み、素晴らしさを訴求し、世界において理念的な面で役割
を果たしていこうとする新たな層に支持を広げることになったと思い
ます。
また、国のあるべき姿についての本質的な議論、日本らしさ、日本の
強み、日本の役割をテーマにした新たな議論の枠組みが提示されたと
いう意味で、非常に有意義であったと考えます。
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ここで、具体的に日本らしさ、日本の強み、日本の役割、新たな日本
の将来像について。
今回も示された現在の世界を覆う原理は、依然として「正義は力、力
は正義」という、いわゆる「覇道」の考え方となります。
これに対して、日本らしい、日本の強みとなる新たな理念は、「高度
な理想主義」に基づく「天道」の考え方といえると思います。
この「高度な理想主義」、「天道」の考え方は、「武士道精神」から
読みとることが出来ると考えます。
「武士道」にも様々な捉え方があろうかと思いますが、私はそのエス
プリは「高度な理想主義」にあり、それを体現した象徴的な人物とし
て「上杉鷹山公」が挙げられると考えています。
この武士道の理想主義精神、上杉鷹山公のスピリッツは、「武士道」
(新渡戸稲造)、「代表的日本人」(内村鑑三)の共に約100年前
となる同時代の著から読みとることが出来ます。
武士道を、なにゆえ高度な理想主義と読み取るかと言えば、その答え
は鷹山公の言葉をそのまま記した方が確実に伝わるものと思います。
「伝国の辞」
一、国家は先祖より子孫へ伝へ候国家にして
我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして
我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にして
君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
この言葉から、私は、
・君主と武士、人民との間にあるのは、直接的な主従の関係
(ステロタイプな封建制)ではなく
・君も武民も互いに、更に高い位置に共通の理想を仰ぎ、
それぞれの立場、役割意識で理想実現に取り組んでいた
との「共通の理想に基づく君主と武士、人民との関係性」を読み取り
ました。
米国第三十五代ケネディ大統領は、記者会見において「最も尊敬する
日本人は」と聞かれた際に、「上杉鷹山」と答えたと言われますが、
大統領就任演説における有名な一節、
「国が何をなしてくれるかを問うのではなく、
国のために何をなし得るかを問うて欲しい。」
という言葉には、個人の自由や権利とは別の視点から、国のトップ
リーダーと国民とが共に共通の目標に向かう姿勢、相互の義務という
面で、上記「伝国の辞」との共通性が見い出せます。
さて、日本において、君主と武士、人民が仰いだ共通の理想とは。
これは、様々な外来文化の吸収により枝葉を広げながら、脈々として
根を長く伸ばし、日本古来からなる英知の年輪を積み重ねてきた太く
真っ直ぐな樹幹そのものであり、非常に純粋で故に普遍の価値を持つ
「天道」、天の道理であったと考えます。
(「お天道様が見ている」「お天道様に誓って」
「お天道様に申し訳が立たない」など)
日本は無宗教の国ともいいますが、個々人における各々の信仰はとも
かく、国、社会としては、特定宗派にとらわれることなく、それぞれ
の存在を認めた上で八百万の神として尊重しつつ、それらの高位に
「天道」を位置づけ仰いできたものと考えます。
「無理が通れば、道理引っ込む」との言葉は、逆に「道理を曲げて、
無理を通すことはまかりならん」との理想を大切にする考え方が現れ
た言葉であり、「正義は力、力は正義」という「覇道主義」とは対極
となる考え方となります。
◇
日本国憲法は、前文はもちろん、9条も国際協調の理念を担保として
国権戦争放棄を規定しており、1国単独では成立し得ない、国際協調
が前提となった非常に理想主義的な憲法となります。
日本がこうした憲法を受け入れ、我がものとして育んできた背景には、
武士道精神の「高度な理想主義」による歴史、文化土壌が大きく影響
していたものと考えます。
現在、国連憲章、日本国憲法の理想主義は、現実的に実効性を持つに
至っていませんが、今後これを具現化していくことこそが、武士道の
歴史的背景を持つ日本ならではの国際的役割の遂行であり、日本らし
さ、日本の強みを活かす方向になると考えます。
21世紀の幕開き、その中での国際的危機に当たり、国家理念を記す
憲法の精神に則り、崇高な理想を掲げ国際的な役割を遂行し信頼を得、
国際的な秩序維持体制の確立を目指すことが重要であり、これを経済、
技術、理念、文化の面で先導していくことが21世紀の日本の役割で
あると考えるところです。 |