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『日本国憲法と武士道精神』 〜 和の心による国づくり 2004.01.06
約百年前、新渡戸稲造は諸外国に向けたメッセージとして英語で「武士道」
を著しました。
ここで新渡戸の言う武士道は、武士階級における処世処身訓としての狭義の
それではなく、士農工商あまねく日本人の心に浸透していた道徳体系としての
武士道精神であり、日本の精神基盤となり和の価値観や美意識を表現する民族
の英知(エスプリ)を伝えようとしたものと考えます。
さて、「武士道」出版から百年後に生きる私達は、今、世界に向けてどの様
なメッセージを発信し得るでしょうか。
「日本国の理念、国家としての意思が問われている。日本国民の精神が試さ
れている」。
小泉首相は、イラクへ自衛隊を送る閣議決定に関してこの様な説明を行いま
した。
こうした状況認識については同感です。まさに、世界各国は、日本の根本的
な理念の転換があるのか、あるいは曲がりなりにも守られてきた最後の一線を
越える転換があるのか、注視をしているものと考えます。
また、国際的な“貢献”の必要性についても指摘がされています。
私は、影響力には自然とその大きさに応じた責任と義務が伴うものと考えま
すので、“貢献”というよりは、影響力に応じた国際的な“役割、責務”の遂
行という意味合いで捉えますが、こうした積極的なコミットメント(関与、役
割分担)の必要性についても同感です。
しかしながら、日本らしい理念や精神に基づいた、日本らしい役割、責務の
果たし方としての具体的な方法論という意味では、全くその方向性、結論が
違ってきます。
これはひとえに、根本となる日本人の心、日本の理念、和の価値観に関する
捉え方が大きく異なるが故のことと考えます。
【和の心、和の価値観について】
「君子は和して同せず、小人は同じて和せず」。
「和」の価値観を語る際、ややもすると、波風立てずに表面的に場をうまく
つくろうことを大人の知恵とする様な捉え方も見受けられるところですが、本
来は、上記の様に、「和」と「同」を区別した上で、それぞれの立場の違いを
残しつつもより上位に共通する理念を究極化して見出し大きな調和を図る思想
が根本になっているものと考えます。
「和をもって貴しとなす」は、和を得るための真摯な話し合いを前提とした
もので、こうした話し合いにより、お互いの立場を越えた共有点が究極的に得
られるとの理想主義に基づく「超調和主義」が基調になっているものと考えま
す。
また、様々な相違を踏まえて大きな調和を見出していくという積み重ねの中
で、互いに共有し得る理念を究極化して導き出す法則が生み出され、それが大
きな和の法則として蓄積されてきたものと思います。
その法則の柱は、「人と人との繋がりを大切にする」(幸せの分割はできな
い)、「自然との親和性を大切にする」という共生の理念であったと思います。
これは、“お天道さま”という素朴な信仰心、価値観とも通じるもので、大
きな和の法則を「天道」と捉えることも出来るものと思います。
和の心とは、素朴であるが故に非常に強く、時代や国境を越える普遍の力を
持つものと思います。
武士道精神はこうした和の心が基調となっており、それ故、百年前の出版時、
各国の多くの人々の心を打ったのだと思います。
今、この時代に生きる私たちが世界に発するべきメッセージは、こうした和
の心、武士道精神を現代に昇華したものであるべきで、イラクの自治主権の確
立、各種の抵抗運動(テロ、ゲリラ、レジスタンス他)の根本解決に向けた大
きな調和を図るための政治的なコミットこそが求められているものと考えます。
◇
【和の心−人と人との繋がりの大切さについて】
例えば、“個人の自由”と“社会的な繋がりや義務”との関係における調和
について。
個人の自由というものは、決して現代的な考え方ではなく、そもそも人類は
個人、家族単位での暮らしが最初の基本だったと思います。
個人、家族で暮らし、それぞれが家族を守っていこうとする中で争いが生じ
る。しかし、敵にも家族があり家族への思いがあることを知り、一方的な優位
や格差のある秩序状況を残したままでは根本的な安定は図られないことを悟り、
戦いを止め、互いが納得できるバランスを調整しつつ和を求める。
こうした争いや和解を繰り返していく中で、家族親族の単位から部族グルー
プが生まれ、やがてより大きな共同体へと、コミュニティは広がっていったも
のと思います。
人誰しも幸せになりたいと願うものですが、他者に不幸な状況があったまま
それと切り放した形で自分だけがいつまでも幸せでいつづけることは出来ない、
個人の幸せを高めるためには、自助・互助・公助といった多層的な関係性や助
け合いが大切であり、他者の幸福を高めることで本当の意味での自分自身の幸
福の質も高めていくことが出来る、との認識が生まれていったものと思います。
人と人との繋がりを密にしたコミュニティは、自助・互助・公助の助け合い
をうまくバランスさせる自己調節機能が働き社会全体の幸福の質が高まるとい
う経験則が得られ、個人の自由と社会との調和が図られてきたものと考えます。
宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
(「農民芸術概論綱要」)という考えも、こうした和の心、天道思想が基盤に
なっていたものと思います。
また、“個人の自由”と“社会的な繋がりや義務”とのバランスに関して、
人は元来、個人単位での自由な統制されない振る舞いや暮らしが原始的な行動
様式なのだから、黙って放って置いたら個人の自由が勝り、社会は繋がりを失
い無秩序化の方向へ進むということも経験してきたものと思います。
そして、こうした社会的な危機を繰り返しながら、自助・互助・公助のバラ
ンスの取れた安心社会は決して自然な無作為の状態では維持できないことを経
験し、社会、コミュニティを維持していくための人為的な営みの重要性を認識
する中で、人と人の繋がりを深め社会的な繋がりを大切にする政治的な仕組み
や制度、文化的な仕組みをつくり上げてきたものと思います。
各種の神話や言い伝え、祭りなどの他、衣食住や各種の行事風習、「晴れ」
と「ケ」のケジメを明確にするしきたり等の中にも、和を重んじる価値観を伝
え、出会い・交流・共感/創造のサイクルによって繋がりを深め創造力を高め
ていく社会的機能の要素が組み込まれているものと思います。
【和の心−自然との親和性の強さについて】
豊かさを求めようとする争いと調和の積み重ねの中で、双方が豊かさを享受
していくための方法として自然の法則に沿った暮らしをすることの重要性が認
識され、そうした自然と親しむ社会生活の知恵が蓄積されてきたものと思いま
す。
例えば、双方がより多く収穫を得ようとする中で乱獲合戦が展開され、逆に
翌年度は双方ともに収穫が得られなくなるなど、自然の摂理やリズムから大き
く離れて豊かさを得ようとすると、無理が生じて富が偏ったり富が長続きせず、
結果として双方が長期的な安定を損なうという経験をしてきたものと思います。
こうした経験の中から、うまく地域分けや収量制限を行ったり、生態系のバ
ランスを考えエネルギーレベル低いもの中心とした食生活、木を育て木を活か
した建築や道具類の住生活、蚕を育て絹を用いる衣服繊維面の衣生活等々が育
まれてきたものと考えます。
田をつくり米を主食とし、豆腐や納豆、味噌、醤油など大豆から植物性のタ
ンパクを摂取し、動物性タンパクは、小魚や小動物を中心として時に馬や熊な
どを食しつつも、食用専門に飼育した牛肉等の肉食を常としない食の設計は、
みんなで食資源を分かち合いつつ持続的な生活を営んでいく上で基礎となる非
常に有効な方法論であったと思います。
また、精神的な豊かさの面でも、季節の移り変わりや花鳥風月など自然と親
しむ中で自然の美を繊細に感じ風流を楽しみ、自然を征服すべき対象とは捉え
ず、テーマパークなどの人工物でなくてもレジャー(気分転換や心の豊かさ)
を楽しめる感性を養い育んできたものと思います。
これは、物質的な価値よりも精神性に重きをなす価値観を育み、凛の心や自
己抑制的な美意識の基盤をつくっていったものと思います。
自然から衣食住の物質的な恵みを受け、また自然を愛で心を豊かにする中で
精神的な恵みも受け、自然と親しみ大自然の法則に適ったシンプルなライフス
タイルを営むことで、持続的にみんなが豊かさを享受できる社会を築き上げて
きたものと思います。
サステインナブル(持続可能)でエコロジカルなスタイルは、古来からの和
の社会にそのモデルを見い出すことが出来るものと思います。
【和の心−多様性の尊重と究極化】
和の価値観、和の文化は、関係性の捉え方、秩序意識に特徴があるものと思
います。
単一の価値観や尺度によって単純に比較したり序列化する形で物事を捉える
ことなく、多様性を尊重しそれぞれの個性を生かしつつ全体の大きな調和を図
ることが可能な柔軟性を持ち、共通理念を究極化して導き出す智恵を持つ超調
和主義の文化。
こうした超調和主義の象徴例が、宗教との関わりの中に見いだせるものと思
います。
日本は「無宗教」の国ともいわれ、これはある種“何でも有りのなあなあ主
義”という文化的な特徴であるが如く捉えられている面がある様に思います。
しかし、八百万の神を崇めるに際しても、決して無原則に何でもよしとした
のではなく、個々の神々や宗教の上位にそれらを包含する大法則を究極化した
形で見出して、“お天道様のもとでは全ての神々がそれぞれの立場で役割を果
たす有り難い存在である”といった捉え方に基づいた高度な昇華を踏まえて調
和を得たものであると思います。
21世紀の現在でも、世界では宗教宗派による心の壁が厳然と存在している
状況にあって、日本では、神や宗教の名の下に対立したり殺し合ったりするこ
とは、真の意味での神の意志に背くことになるという根本理解が広く行き渡っ
ているものと思います。
その意味で、本来日本の宗教文化は、いわば「天道」に基づく“超宗教”の
文化と捉えるのが相応しいものと考えます。
日本社会の特徴として、貧富の差の極端な開きのない平等さが挙げられるも
のと思います。1等車、2等車といった階級的なサービスの差違は基本的に見
当たりません。
これは、社会の豊かさ、社会の幸福に関する独自の価値観が大きく影響して
いるものと思います。
全ての人がそれぞれに相応しい役割(天命)があるという多様性の尊重は、
上流階級に対する単なる下級階級といった階層分化ではなく、様々な分野での
専門家や職人を生み、階層を越えた多様な交流を生んだものと思います。
こうした多様な交流により、様々な共感や創造が生まれていき、これが社会
のダイナミズムに繋がっていったものと思います。
いわゆる上流階層、富裕層は、長期的な豊かさ、開明的な利益を重視して、
同種の人間達だけで集い“幸せの線引き”をして閉鎖的に振る舞うのではなく、
精神的な価値に重きを置き、多様な人々との交流による繋がりの広がり、深ま
り、そして社会のダイナミズムに豊かさや幸福を見出してきたものと思います。
自らの幸せの質を高めるために、他者の幸せを高め社会全体の幸せを高める
こと、すなわちそれぞれがそれぞれの個性を生かして社会に参画し自己実現が
図れる福祉(自助・互助・公助)の充実が大切だと考え、自らの影響力に応じ
て社会への役割を果たしてきたものと思います。
また、様々な相違や多様性を越えて互いが納得し尊重できる共通の理念を見
出す「究極化」の蓄積は、智恵や英知を養い、抽象的なものの中に真理を見出
す観点を養ったものと思います。
日本の庭園美は、西洋の人工的な美意識とは対極的に、一見雑然とした中に
調和や真理を見出す価値観が基調になっているものと思います。
こうした究極化は、文化面でも大きな発展を見せ、俳句や短歌、浮世絵など
の他、日の丸の国旗、君が代の国歌などの美意識にも繋がり、シンプルで象徴
性の高い和の精神文化の一つの柱になっているものと思います。
◇
【和の心、和の国づくりと武士道精神について】
「民、信無くば立たず」。
民主主義は新しい現代的な概念で、これを世界中に広く行き渡らせることが
重要との考え方もある様に思います。
しかし、はるか以前もっとも初歩的な社会構築の段階から、様々な争いを克
服して調和を得る過程において、約束違反や裏切りなどによってさらに争いが
深刻な状況に陥り、結局最終的な安定を得るまでに多くの無用な血を流してし
まう、といったことを繰り返す中で、双方が約束事を守ることの大切さ、すな
わち「信」の重要性が認識されてきたものと思います。
信頼があればこそ民が納得をして立ち、双方の合意や社会、政治が成り立っ
ていく。
民が主となり信頼を基盤として社会が成り立つという意味で、「民主」は
“主義”ではなく“原理”であり、民の意思から大きく逸脱すれば社会は成り
立たなくなるという意味では、過去から現在に至るまでどんな社会でも「民主
原理」が働いていると捉えられるものと思います。
経済の面で市場原理があり市場主義経済にそれぞれの形態がある様に、政治
の面でも民主原理をいかに健全な形で社会運営に活かしていくかという民主主
義政治に、各国各地域なりの形態があってしかるべきものと考えます。
内村鑑三は、「代表的日本人」において投票箱による圧制政治の危険性を提
示し、真のサムライによる“徳”に基づく封建制の昇華を展望しています。
和の心、和の価値観に基づいた和の国づくりは、個人と社会の調和において
封建的な形態をとりつつも「信」を大切にした民主社会が基本であったと考え
ます。
また、調和を得る過程において、強者の側、優位にある側に「仁」による広
い心を求め、さらに上に立つ者には“民の父母”としての慈しみを求め、これ
に民は「忠」の尊敬とまごころで応えるという人格的な心の繋がりや関係性が
育まれてきたものと思います。
そして、社会を維持するための文化的な仕組みとしての祭り、儀式、衣食住
や行事風習などの中で、「礼」の心が育まれてきたものと思います。
これらが、個人が自らのそして家族の幸せのために社会を形成し維持してい
くに際して大切にして守らなければならない「義」であり、信義、仁義、忠義、
礼儀として重んじられてきたものと思います。
個人と社会との関係性がつくられる以前にも、個人と個人との基礎的な繋が
りや関係性といった面で、親や師からの温情に感謝し応えようとする「孝」の
心があり、また、言ったことを成すという「誠」の心があったものと思います。
和の調和の真髄ともいえる共通原理の究極化においては、真理に対して虚心
に向き合う姿勢の中から智恵や英知による昇華を得ることを通じて、賢しらと
は別の「智」が育まれてきたものと思います。
この様に、「信」「仁」「忠」「礼」「義」「孝」「誠」「智」など武士道
における象徴的な精神価値は、和の心、和の価値観に基づく国づくりの中で育
まれ、広く日本人全体に浸透してきたものであり、武士道精神は和の心を基盤
とした精神文化のエスプリといえるものと思います。
武士道は、単なる封建社会における主従の関係性や侍階級の処世処身を論ず
る以上の広がりと奥深さを持った理念であったと思います。
君主も武士民衆も共通の理想を仰ぎその実現のためそれぞれの立場から実践
を行うという、共通ビジョン「義」による共感運営に大きな特徴があり、これ
に民の父母といった人格的な心の繋がりや関係性が加わり、徳を備えた民主的
な封建社会が活き活きと運営されていたものと思います。
こうした武士道政治の究極的な例が、新渡戸の「武士道」、内村の「代表的
日本人」の双方において紹介のある上杉鷹山の治世の中に見出すことが出来る
ものと思います。
上杉鷹山が家督を譲るに際して後継者に授けた言葉として「伝国の辞」があ
ります。
「伝国の辞」
一、国家は先祖より子孫へ伝へ候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立ちたる国家人民にはこれ無
く候
この言葉から読みとれるのは、高い理想主義の精神です。
君主と武士、人民との間に、直接的な主従の関係ではなく、共通の理想を仰
ぎ、共にそれぞれの立場、役割意識で理想実現に取り組む関係性が見て取れま
す。
米国第三十五代ケネディ大統領は、これらの書に目を通していたとされ、記
者会見において「最も尊敬する日本人は」と聞かれた際に、上杉鷹山と答えた
と言われます。
「国が何をなしてくれるかを問うのではなく、国のために何をなし得るかを
問うて欲しい」。 この言葉は、ケネディの大統領就任演説における有名な一
節ですが、個人の自由や権利とは別の視点から、国のトップリーダーと国民と
が共に共通の目標に向かう姿勢、相互の義務という面で、武士道精神の粋との
共通性が見い出せます。
単なる民主主義ではなく、リーダーの役割、高い精神性を重視し、国民にも
参加義務を求める形で君主政治との高い次元での融合、昇華のエスプリが窺え
るところです。
上杉鷹山の政治により、後に、米沢、置賜地域はまさに天の国ともいえる理
想社会を実現します。
当時、実際に米沢を訪ねた学者が残したエピソードとして「棒杭の商いの話」
があります。
“人里離れた道の傍らに、わらじや果物などを棒杭にぶら下げた、
管理人のいない市場がある。
人々はそこに記されている通りのお金を置いて品ものを持ち帰る。
こういった市場で、盗みが起こるとは誰も思っていないのである。
この様な商いが、現実として行われている。”
こうして米沢は、「至治の国」、治世ここに至れりとまで言われる様になっ
たとのことです。
武士道精神に基づいた政治は、まさにこの様に、心や精神の在り方に重きを
置きつつ信頼により民の主体的な参画を得て、君民ともに共通理念の実現を
図っていく理想主義政治であり、民主封建国家の性格を持っていたものと思い
ます。
そして、現在においても、我々に大きな可能性と示唆を与え続けている様に
思います。
◇
【日本国憲法と和の心、武士道精神、及び国際社会における役割について】
「政治は可能性の芸術」という言葉があります。
人類は宇宙に仲間を送り出せるほど科学技術を進展させたにも関わらず、み
んなが仲良く安心して健康に暮らしていくという世界平和の面では、未だに次
段階にステージを高めることが出来ていません。
その意味で、世界平和を実現し地球文明を次のステージへと進めるという可
能性に挑むことは、政治の大きな役割であり責任であると思います。
日本国憲法は、前文はもちろん九条も国際的な信義を担保として国権戦争放
棄を規定するなど、信頼と共感による国際協調体制(世界共同体)を志向する
人類普遍の理念に基づいた非常に理想主義的な憲法となっています。
政治における創造性(クリエイティビティ)という意味では、可能性を極限
まで追求する高度な想像力(イマジネーション)によってもたらされた究極の
ファンタジーとさえ言えるものと思います。
こうした憲法が日本国民に受け入れられたのは、単に敗戦後の占領統治下で
強制されたというだけでなく、もともとこれを受け入れる理想主義の精神基盤
があったためと考えます。
前述の和の心、武士道精神の背景があったからこそ、日本は日本国憲法を理
念的に受け入れることが出来、そしてそれを長年に渡って我がものとし続けて
きたのだと考えます。
小泉首相は、以下の形で、日本国憲法の前文と九条との間に「すき間」があ
り整合性を説明することが出来ない旨の国会答弁を行いました。
「憲法前文と九条の間のすき間でできることをやろうと考えている。法律的
な一貫性、明確性を問われれば答弁に窮する」。
果たして、小泉首相は、和の心、武士道精神をどの様に理解しているので
しょうか。
「日本国の理念」「日本国民の精神」が試されているとする中、日本人の心、
和の価値観、武士道精神をどの様に捉え、今の政治にどの様に活かそうと考え
ているのでしょうか。
「正義は力、力は正義」という「覇道」と、共感と信頼によって多様性を残
しつつ大きな調和を図る「天道」をどの様に考えているのでしょうか。
小泉首相によって、憲法条文を変えなくても、憲法解釈さえ変えなくても、
議会の多数を背景に言葉を弄することで実質的な改憲を行う、いわば「強弁改
憲」「言弄改憲」の道が開かれた様に思います。
そして、究極の言弄改憲として「これは、戦争ではない」という禁断のなし
崩しを進めている様に思います。
武器を携帯した軍人を輸送しても、「戦争ではない」。武器を持ち込み携帯
威圧しながら、抵抗を受け殺傷しても「正当防衛」。
小泉首相は、政治家の言葉の重みを軽ろしめたという意味で、歴代首相の中
でも最大級の罪深さを負う国家指導者であると思います。
私は、和の心、武士道精神の理想主義、超調和主義に鑑み、憲法の前文と九
条との間に破綻はなく、日本国憲法はまさしく日本の国家理念に相応しい憲法
であると考えます。
そして、和の心、憲法の精神を活かして、今こそ、国際協調体制のレベル
アップによる全地球的枠組みからなる世界共同体、統治システムの構築を進め
ることが日本の役割であり、日本らしい世界への関与のし方であると考えます。
◇
【和の心、憲法の精神に基づいたイラク問題への対応について】
イラクの今の状況は、まさに「信無くば立たず」の究極、それも悪い意味で
の究極的な状況と捉えます。
最低限の民主主義は、統治者がいるだけでは成り立たず、民衆がいて基礎的
な社会を営める状況か否かが鍵となり、社会運営に民の協力が得られるだけの
信頼関係のあることが条件になるものと考えます。
しかしながら現在は、民衆の不信感によって基礎的な社会運営が出来ていな
い状況と捉えます。
民主主義をイラクにもたらすための正義の戦いと言いつつ、兵器の査察解体
過程に先制攻撃を仕掛け、核汚染兵器(劣化ウラン弾)を用い、子どもや市民
の巻き添え死傷を多数招く収束爆弾(クラスター爆弾)を用い、「誤爆」とい
う一言のもと市民を殺している非人道的な戦争。
高性能武器装備で圧倒的優位の下、ゲームの様にイラク兵やイラク市民を殺
戮する行為を、果たして「戦争」と呼べるものか。
石油省だけを守って、博物館や銀行は放置し無用な混乱を助長し、フセイン
大統領を捕縛するためということで宗教施設であるモスクに無遠慮に立ち入り、
夜間土足で民家に押し入って女性の部屋も荒らし子どもにも恐怖のトラウマを
植え付け、これに抗議しようとする男達は力で鎮圧し、占領軍が民衆の根深い
抵抗を恐れるがあまり、疑わしいとみなした一般市民を殺すという予備的殺人
が行われている状況。
こうした強圧的な占領姿勢により、それが更なる反感やゲリラ抵抗運動の拡
大に繋がるという悪循環に陥っているものと思います。
占領統治の安定は、言うがままになる民衆を除いて皆殺しにするまで確証が
得られないという意味で、まさに信頼がなく民が立たず社会が成り立たない究
極的な状況と言えるものと思います。
自由と民主主義の価値を大切にするならば、自分の国のことは自分の自由な
意思に基づき自分で治めるという「自治独立」「主権の確立」が重要であり、
自らが自らの責任で選択をし試行錯誤を繰り返しつつも自国の歴史をつくり上
げていくという当事者としての運営権利こそが一義的に守られるべきであると
考えます。
他国の軍隊によって、「間違い」「誤爆」といって殺されない権利、軍事的
な強制力によって政治体制を強いられない自由が基本となるべきと考えます。
各国各地域の文明文化は、何世代にも渡る人々の蓄積によって成り立ってい
るものですから、真の意味で人権を守り人道的な立場に立つならば、多くの
人々が生きた証として蓄積されてきた文明を尊重しこれに危害を加えないこと
こそが重要になるものと考えます。
文明に対する軍事的な干渉は、人道の枠を越え、人類史文明史に対する罪で
あり、冒涜であると考えます。
孔子は、政治の要諦として「兵」「食」「信」の三つを挙げ究極の選択をし
ました。
孔子は、三つの内の一つを捨て去るとすればいずれを捨てるべきかとの問い
に「兵」を選び、さらに二つの内一つを捨て去るとすればと「食」を選んだ後、
「民無信不立」(民、信無くば立たず)と答えました。
究極を考えることでものごとの本質を明らかにしようとしたものと思います。
「食」が無くなるのは極限的な状況と思いますが、姥捨山の例など信頼と納
得感が有れば食の行き渡らない極限でも“死ぬ順番”を決めることが出来て秩
序ある社会運営は可能となります。
逆に、全員に十分に行き渡るだけの食料があっても、信頼がなければ食を奪
い合うなどして、より多くの人々が死ぬことがあり得ます。
小泉首相は、イラク国民を人道的に支援することを目的として自衛隊を送る
決断を説明しました。しかし、今、イラクにおいて求められている第一優先課
題は、水よりも食料よりも自治独立の保障であり、イラク国民の信頼を確立す
る政治的な枠組みづくりであると考えます。
復興人道支援は重要と思いますが、復興のための最大の条件は戦争の終結で
あり、他国の軍隊が撤退をすることが真の人道支援にも繋がるものと思います。
日本政府は、イラク国内における非戦闘地域に自衛隊を送り人道支援を行う
立場ですが、人道支援を求めているイラク国民は非戦闘地域にだけではなく、
戦闘地域にも数多くいます。
限られた場所で限られた支援活動を行うだけで、果たして現在の日本の国力、
潜在的影響力に見合った役割を果たしたことになるでしょうか。世界に名誉あ
る地位を得ることが出来るでしょうか。
日本は小国ではなく、その潜在的な影響力に大きな期待を受ける責任の大き
な国であると思います。
日本が果たすべき役割は、戦争を終結させ信義を確立することであり、この
ための政治行動こそ、和の心に基づく日本らしい役割の果たし方であると考え
ます。
仏独露中の側と言うよりも、アナン事務総長をサポートし国連機能を強化し、
国連改革を進める立場に立つことを表明し、そうした流れを生み出していくこ
とこそが重要と考えます。
具体的には、戦争当事者、すなわちイラクと米英軍の兵力切り離しを国連の
枠組みで進め、米英他の駐留軍を退去させること。
この国連の兵力切り離し活動には、直接の戦争当事者ではない国連常任理事
国、すなわち仏露中、及びイスラムのイラク同胞を中心とした部隊が当たるこ
と。
イラクの自治独立を認め、新体制の段階的な構築ステップ、及び現実的な各
種インフラやシステムの復興を国連の枠組みでサポートすること。
フセイン大統領の保護を国連で行うこと。
各国の負担割合は、直接の分担金、債権放棄等を合わせ、戦争当事者、関与
者に重い傾斜配分とすること。
イラクの石油収入は、イラク政府管掌のもと国連で管理し、国内復興予算と
各国への債務の返済にあてること。
復興支援金は、アメリカ占領当局にではなく、国連、イラクに供与し、各国
が直接復興プロジェクトを請け負うのを基本とすること。
こうした大転換は、すぐに実現することができなくても、全世界に向けて世
界のあるべき姿とイラク問題解決の一つの道筋を示すことに大きな意義がある
ものと思います。
また、道義、徳に基づく世界秩序の回復に向けた連帯を広げ、こうした動き
をリードしていくことが重要と考えます。
アメリカにも様々な考え方がありますので、同盟国として真の友情に基づい
てあるべき方向を示すことにより共感の輪を広げ、真の信頼を深めていくこと
に力を注ぐことが重要であり、長期的にみて関係性を強化することに繋がるも
のと思います。
◇
【テロとの戦い、人類史を次段階へと高める大きな調和に向けて】
「テロに屈しないで、毅然として」。
各方面でこうした論調を見かけますが、本当の意味でテロをなくすためには、
テロへの共感をなくしテロの孤立化を図ることが重要不可欠と考えます。
各種の抵抗運動、レジスタンス、ゲリラ、テロなどを無くすことが出来ない
大きな原因は、こうした行動に対する理解や共感、あるいは同情、黙認、支援
等の広い意味でのバックアップ土壌が一部社会に広く存在するためと考えま
す。
それ故、通常犯罪と同様に効率的に首謀者や実行犯を捕らえることができず、
また、一旦一部組織を壊滅させても他に新たな組織が生まれるなど、際限のな
い組織の再生を抑止できない状況にあるものと思います。
こうした抵抗運動、テロを「民主主義に対する挑戦」と位置づける論も見受
けられますが、民主主義の価値そのものへの挑戦、あるいはその否定というよ
りは、もう少し正確に「“現在の民主主義体制”に対する挑戦」と認識するべ
きと考えます。
すなわち、遵守されるべき国連決議と遵守されなくてもよい国連決議がある
というダブルスタンダードな民主主義体制。特定の国(常任理事国5カ国)が
個別の利害により全体の決定を左右する(拒否権を有する)ことが可能な民主
主義体制。
また、世界の冨の極端な偏り。衣食住の根本的な生活基盤さえ危うい人びと
が多数存在するにもかかわらず、一方では多くの食料を無駄にする飽食があふ
れ、こうした他者の痛みに無頓着な世界の現状。
誤爆による市民の殺傷や収束爆弾、劣化ウラン弾等による市民の犠牲、世代
をまたいで遺伝的に傷つける行為は認められるが、自らの命を賭しての自爆攻
撃は卑怯とする、余りにも偏った命に対する考え方。
一方では、地球を何度も壊せるほどの核兵器を持ち、その使用に関する国際
的な制限や削減の道筋を示すことなく、他国を悪と決めつけ先制攻撃の権利を
も主張しながら、自国文化の自衛のための抑止効果を意図した核開発は認めな
いという安全性に関する考え方。などなど。
こうした現状を省みることなく、「テロには一分の義もなし」とする態度や
対応をとるならば、あまりに尊大で共感は得られず、自らの幸福のまわりに境
界線を引いて他者の不幸と線引きをしようとし続けるならば、根本解決に繋が
らないだけでなく、歴史によってそうした考えは挫かれることになるものと考
えます。
やはり、人類史、文明史の大局に立って、「義」を確立することが重要であ
り、他者の幸福を高めることで自らの幸福、社会全体の幸福の質を高めるとい
う、幸福追求スタイルの大転換を図ることが重要と考えます。
真に在るべき社会構築に向けた取り組みを続けることこそが、各種の抵抗運
動、テロに対する共感や黙認、支援を減らし、テロを孤立化させテロ存立の土
壌を消し去り、真の根本解決へと導きます。
和の心、武士道精神の超調和主義、理想主義に基づき、信頼と共感による大
きな調和を得て世界の平和を実現し、人類史を次ぎなるステージに導くことこ
そ、日本らしい日本の理念に則した世界への関与のし方であると考えます。
以上
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何国にも 生命連鎖織り成す 文明在り
互尊共歩の 大和こそ今
いずこにも いのちおりなす たからあり
ごそんきょうほの たいわこそいま
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各国各地域に、幾世代にも渡る命の繋がり、想いの繋がり、経緯に
連なる人びとの喜怒哀楽の積み重ねによって醸成された固有の伝統
文化、文明が在り、これは非常に貴い宝、歴史の財産であると思い
ます。
この貴重な伝統文化、文明を、地域立場の違いを越えて互いに尊重
すること、また先代から受け継ぎ、後世に向けて発展昇華させてい
こうとする人々の想い、現世を生きるものの使命感に共感を寄せ、
一緒に歩んでいくことが大切であると思います。
今こそこうした超調和主義の大道に立つべきであり、それが和の心
に則った日本の役割であると考えます。
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長根 英樹 ながね ひでき
きものプロデューサー/和文化プロデューサー。
小沢一郎政治塾1期生。
山形県米沢市在住。
1966年岩手県生まれ。37歳。
岩手県立水沢高等学校理数科卒業。
慶應義塾大学理工学部卒業。
(株)電通パブリックリレーションズ入社。
主に企画部署で企業/自治体の広報戦略やインターネットコッミュニ
ケーションを研究実践。
山形出張が縁で米沢織の魅力に惹かれ、織元に入社。きものの世界へ。
現在は、きもののプロデュースと地域再生、日本の精神文化再興など
幅広い視点からきもの心の見つめ直し、和文化プロデュースに取り組む。
ホームページアドレス http://nagane.kimono.gr.jp/
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「きものダンディズム」をテーマに男のきもののプロデュースに取り組む。
また、「スローライフ」運動を、衣食住(food, clothing, and housing)
の衣の分野から進める「スロークロージング」を提唱、プロデュース。
「きもの村」(http:// www.kimono.gr.jp/)主宰。
日本の伝統的な価値観形成の土台となり、同時に和の心を表現してきた装い
としての和の服“きもの”。
こうした長年の歴史の中で育まれた装いと精神との関連性の強さ、その蓄積
こそがきものの最大の魅力、可能性と捉えて、これを温故知新により見つめ
直し、現代に発展昇華させる「スロークロージング」をテーマとして各種の
提案、コンサルティングを行う。
また、こうした“きもの心”の魅力にひかれるユーザー、流通、メーカー等
のネットワーキング、共創相乗関係の構築、運営に取り組む。
※参考論文集&メディア掲載
http://nagane.kimono.gr.jp/hideki/home/mess.html
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